侘び寂びとキャンプと

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軍幕デビューしたいという知人と飲んでいて、テントは快適性より浪漫だろう、快適性を求めるなら家にいたらいいじゃないか、という話をしていた。

飲みの席だから極端な話になったのだが、道具を選ぶときの基準に浪漫を感じるかどうかが重要だというのは新たな視点の発見だった。

この場合、浪漫というのは雰囲気と言い換えてもいいだろう。趣き、侘び寂びと言ってもいいかもしれない。ある人はそれを無骨と言い、またある人は男前と言うかもしれない。それを我々は趣きがある、と言うだけだ。今年はシャツをインするのも雰囲気、みたいなことをもう少し上の年代の元古着屋店長は言うのだが、この場合も雰囲気を趣き、と言い換えても意味は変わらないだろうからあながち間違いではない。

唐突だが、キャンプは茶道の趣きがあると思う。これは僕の作るシェルターが、這ってでしか入れないにじり口を思わせることから着想を得た。(特にDDタープは茶色、緑など渋い色合いでお茶を連想させる)キャンプの素敵なところは自分の気に入った道具だけに囲まれて生活できることだ。選びぬかれたギアで構成された狭い空間は何となく茶室を連想させなくないだろうか?茶室に入ったことがないのでよくわからないが。

時の戦国武将は茶器の収集に血眼を上げたという。僕も最近、キャンプ道具の収集熱が高くて困っている。特にクッカーとマグカップ、つまり、器類を集めてしまうのだ。おかげで台所の洗い物カゴがアルミ鍋やキャンティーン、マグカップ等々で山盛りになってしまい、家の者から文句を言われている。しかし茶釜を抱いて爆死した松永久秀の如く、男が器の沼に嵌ってしまうのは歴史的に見ても至極当然のことなのである。そう納得するしかない。

しかしキャンプだとバックパックに収まるくらいの荷物で十分快適に過ごせるのに、どうして家にはものが溢れていて、それでも満足できないのだろう。どうしてPOPEYEの部屋特集で紹介される部屋に一歩も近づけないのだろう。キャンプに来るとモノの少なさにホッとする。最低限これだけあれば一日過ごせるという、モノの量が意外に少なくて安心するのだ。